畠山義就 関連エントリー

畠山義就

1467年2月22日(文正2年)、畠山義就(よしなり)が、上御霊社に畠山政長を攻めて破り、応仁の乱始る。 管領畠山持国の子。室町幕府の三管領家。 細川勝元に対抗する山名持豊の支持を得、上御霊神社にて、政長を破る(御霊合戦)。 ...

畠山義就

[private] 現代の応仁の乱

... 応仁の乱 と言えば 足利 義視ー 畠山 政長 - 細川勝元 - 斯波義敏 (東軍) 足利義尚ー畠山義就 - 山名持豊 - 斯波義廉 (西軍) という対立 構造 ではあったが、実際、義視と義尚の足利 将軍 家はカヤの外であった。 ...

[private] 現代の応仁の乱

今日は何の日 12月18日

今日は何の日 12月18日 忌日 1490年 畠山義就 (武将) 1672年 保科正之 (大名,会津藩主(初代),江戸幕府4代将軍家綱の補佐) [1611年5月7日生] 1737年 アントニオ・ストラディバリ (伊:ヴァイオリン製作者) Antonio Stradivari ...

今日は何の日 12月18日

上御霊神社

... 足利義政が将軍の頃 畠山義就と、従兄弟の畠山政長との家督争いが発端となった応仁の乱 足利義政が優柔不断で始まったとされる争い 畠山義就に政的不利な状況に追い込まれた畠山政長 賊軍扱いされた畠山政長は自宅に火を放つ ...

上御霊神社

下克上の至り,山城の国一揆

... 視→細川勝元→畠山政長→狛秀盛 西軍:足利義尚→山名宗全→畠山義就→椿井懐専 この最後の 狛氏 と 椿井氏 が 国人 と呼ば ... 現に、この一揆の直後、 椿井懐専 (かいせん) は、 畠山義就 によって切腹させられています。 政長の息のかかった国人 ...

下克上の至り,山城の国一揆

畠山義就 とは?

畠山 義就(はたけやま よしひろ(よしなり)、永享9年(1437年)? - 延徳2年12月12日 (旧暦) 12月12日(1491年1月21日))は、室町時代の武将である。足利氏(足利将軍家)の一門にて室町幕府の三管領家のひとつである畠山氏出身。管領畠山持国の子で、母は側室。子に畠山義豊。名は義夏。
畠山家の家督は養子に迎えた畠山持富に決まっていたが、義就が出生すると48年に持富への相続を撤回し、室町幕府8代将軍の足利義政から裁可を得て義就が新たに後継者と定められる。義就への相続には、守護代の神保氏や被官らが反対し、持富の子である畠山弥三郎を支持して抵抗する。
1454年には弥三郎を没落させるが、細川氏や大和の国人である筒井氏らの支持を得て、義政から赦免された弥三郎は9月に再び上洛、義就は伊賀へ没落する。義就は12月に再び河内から上洛して弥三郎を追い、55年父の持国が死去すると3月には家督を継承。59年に弥三郎が病死すると、弟の畠山政長が擁立され、引き続き義就と対立。60年9月には河内へ没落して、政長が家督を継承する。義就に討伐の綸旨が下り、朝敵となる。義就は嶽山城(大阪府富田林市)に篭城し、討伐に下った畠山、細川、武田らの兵と戦う。63年には嶽山城は陥落し、紀州から吉野へ逃れる。

畠山義就の詳細